川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊「人生の記録」を中心に書いています。

古き良き小江戸。埼玉県の川越で江戸明治の町並みを味わう(書生の旅行記15)

 10月1日より地域クーポンが配布されることとなり、一層活気付き始める観光業。テレビやCMなど、メディアではGoToトラベル特集が行われ、人々の旅行意欲を刺激する。僕も刺激された一人で、11月の半ばに「小江戸」と呼ばれる埼玉県の川越へと行くことにした。

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時の鐘

⑴ 『鬼滅の刃』の世界観を感じさせる「小江戸」

自動車とハイカラさんの通る川越一番街

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時の鐘

 長年愛用していたフィットで川越に行こうと思ったのだが、直前に事故に遭ってしまい、新車の真っ赤なボルボを購入。しかし、こちらのボルボ、免許取り立ての妹が物損事故を起こしてしまい、暫くの間、修理工場へ置かれることとなった。そのボルボの代わりにやってきた車がピンクのマーチだった。僕はこの自動車で川越に向かうことにした。

 GoToトラベルの影響か、川越付近は渋滞し、小江戸はマスクをつけた人々でごった返していた。川越一番街とも言われる酒造りの町並みが見れる道路は、乗用車やバスがずらりと並び、そこでは現代と近代が混在していた。

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川越一番街では江戸や明治に建造された建物が多く残る。

 車道の両脇には着物をきたハイカラさんがそぞろ歩きをしているが、色の付いた布マスクがここは令和であることを忘れさせない。稀に、黒と緑のチェック柄の和服を着ている人がいたが、これもまた、2020年であることを忘れさせなかった。

 彼女らの大勢が、大通りから横へ折れていく道があった。僕もそこを曲がってみると、そこには川越のシンボル「時の鐘」があった。

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時の鐘

 時の鐘は1624-44年の寛永年間に、当時の川越藩主・酒井忠勝によって建てられた。現在のものは1893年の川越大火の翌年に再建された4代目。今でも、その鐘の音は1日4回聞くことができる。

玉子の店と鰻の店

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玉子料理屋「オハナ」と串焼き店「りんりん屋」

 小腹が空いたと、通りをぶらぶら歩いていると、行列ができているお店を見つけた。「小江戸 オハナ」というお店らしい。親子丼や玉子焼御膳などを提供する玉子料理屋らしい。お店に貼られたチラシに写る親子丼がとても美味しそうだったので、僕は並んででも食べてみることにした。

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左)小江戸オハナ 右)親子丼の卵はとろふわだった。

 店内に入るとまずは手をアルコール消毒。そして透明な仕切りで区切られたテーブルに着席。先にレジで注文とお会計を済ますようだ。僕はだし巻き玉子と親子丼を頼んだ。だし巻き玉子はとても柔らかい上に、味がしっかりとついていて美味しかった。親子丼も綺麗な黄色い玉子で、食べる前から美味しいのは分かっていた。

 お腹を膨らませてお店を出た僕は、隣のお店から串を持って出てくる人々を見つけた。満腹にも関わらず、僕はその「串焼きりんりん屋」というお店に入ってみた。確かに串焼きも美味しそうだったが、それ以上に鰻のおにぎりのようなものが美味しそうだった。しかし、串焼きはともかく、流石に鰻のおにぎりはお腹に入らなそうなので、お持ち帰りで注文することにした。鰻のタレで茶色く染まったご飯に鰻が乗った拳大のおにぎりは、ちまきの様な葉っぱで包まれ、僕の手に渡ってきた。家に帰ってから食べたが、これも美味しかった。

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「串焼きりんりん屋」。鰻のおにぎりの写真は撮り忘れてしまった。。。

⑵ 藩政時代の川越

幾多の大老と老中が城主を務めた川越城

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川越城本丸御殿

 川越一番街から東へ歩いて行くと、川越市役所を通り過ぎた。人気のない病院のように無機質な市役所の手前には、誰かの銅像が建てられていた。近づいてよく見てみると太田道灌の像だった。僕はこれから、この太田道灌とその父が1457年に築城した川越城を見に行くのだ。

 市役所と本丸御殿との間に中ノ門堀跡があった。この堀は泰平の世となった江戸時代、川越藩主の松平信綱による川越城の改修の際に作られたものだとされている。川越城は江戸の北の守りとして重要視されていたからだ。

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川越城中ノ堀跡。右の坂が急なのは、右側からやって来る敵が左(本丸)側に行きにくくするためだそう。

 今や誰でも通りやすくなった平らな道をもう少し進むと、学校の隣に川越城の本丸御殿が現れた。現在の本丸御殿は1848年に川越藩主・松平斉典が建てたもので、ここに城主が住み、藩政が行われた。まさに川越藩の中心であった。

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川越城本丸御殿

 川越城が築城された頃は扇谷上杉家の城であったが、1537年には後北条氏によって攻め落とされる。後北条氏は城奪還に燃える扇谷上杉氏ら連合軍を河越合戦にて撃退し、北武蔵の支配を強めていった。

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手入れの行き届いた中庭や部屋には、かつてここで過ごしていた人々の生活の残り香を感じる。

 しかしながら、後北条氏の支配は長くは続かず、1590年、豊臣秀吉の関東攻略に際し、前田利家らに攻め入れられる。後北条氏の降伏後は、徳川家康の重臣・酒井重忠が川越城に入り、その後も徳川幕府の有力家臣が川越に配置された。

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家老詰所の縁側は西日がよく当たり、多くの観光客が眠そうにしていた。

徳川家光の生まれた喜多院

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喜多院

 西陽を半身に受けながら、川越の町を歩くこと数分。喜多院に到着した。平安時代に創建された由緒ある建物の内部は撮影不可だったが、春日局が化粧をした間や徳川家光が誕生した間を見ることができた。「生まれながらの将軍」であった家光誕生の間は、他の部屋とは格別で天井に装飾が施されていた。

 喜多院を出た頃には早くも太陽が沈みかけていた。再びピンクのマーチに乗った頃には街灯が点り始め、圏央道に乗った時にはすでに空が暗くなっていた。冬の太陽は短い。

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参考文献(※参考順)

・「小江戸川越 見どころ案内」小江戸川越観光協会

・「川越城本丸後殿パンフレット」川越市立博物館

 

※下に以前の旅行記を貼ります。

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